死ぬくらいならバイクに乗りたい。
それとこの寂しさを埋めてくれる人とエッチがしたい。
この際、需要があるゲイの人でもいい。HIV陽性者の可能性があっても大丈夫。
だって死のうと思っていたんだから。いつか死ぬんだから。
そんな考えがふと頭をよぎった。
「死ぬくらいなら」ということば。
潔さを感じる一方、自暴自棄にもとれる。
HIV陽性者とエッチがしたい。という考えは間違いなく賢者タイムなんかには思わないはずだ。
それくらい正常な判断とはいえない。
この言葉が引き出す本人の考えは、根底にあるけど願いにくい願望、打ち明けにくい願望だったりするのかなあと思う。
バイクに関しては、雨の日に乗れない、完全に趣味用のもの、維持費がかかる、車買ってるからこれ以上ムリ。高い。
ゲイとエッチに関しては、コロナ禍で発展場に行けない、病気にかかったら治療費がかかる、仕事にも影響が出る。
などだ。
死ぬくらいなら死ぬ気で働いてお金をバイクにつぎ込む。
病気覚悟、死ぬ気覚悟でゲイの人と性交渉する。
みたいな安直な発想なんだろう。
でも毎回、思いとどまるのは、「そのとき死にたいと思っていて実際やった後、まだ生きていたいなあ。と思うから。」だろう。
まだ生きていたいなあ。
多分死ぬ直前もつぶやくのかなあ。
生きることを諦められないと言うより、死ぬことを受け入れられない。という方がしっくりくる。
死を望んでいたとしても、死を目前としたときは絶対有り金全部突っ込んででも回避するし、
自ら死を選ぶなんて覚悟もない。
だから今日も何かやることを探している。
のんびりと、誰も傷つけずに、自分も傷つかないようひっそりと生きていく。