25歳で出産した人がいた。
25歳で出産すごいという言葉しかでない。
体もボロボロな状態で子育てが始まる。
子育てには大変な労力を要するらしい。
日々の育児、家事、夜泣き。
比較的体力がある若いうちに出産することが人生設計的には望ましいらしい。
確かに理にかなっていると思う。
出産適齢期+体力勝負の子育てを行うには若いうちがいい。
ただこう考えてしまう自分もいる。
「若さがもったいない」と
出産・結婚は今後の人生の可能性の芽を摘んでしまう行為であるように思ってしまう。
昔で言う「女は結局お嫁に行くんだ、学校なんて通わせなくていい。」
みたいな考えだ。
では「若さがもったいない」は具体的に何がもったいないのか。
子育てに当てた時間で得られたであろう社会的地位?お金?自由な時間?教養?人間関係?
いろいろなものが思い浮かぶ。
おそらくこのまま生きていたら得られたであろう財産を、自ら手放す行為であるからもったいない。と感じるのだろう。
このまま生きていくよりも現状を手放して新しいものを優先した。と考えてしまうが、
実際は「安定した未来と現在を捨てた。」というより「不確実な連続性の中で現状、最適な選択を行った。」という考えが正しいのではないか。
僕には妊娠して結婚し、現在休職している同期がいる。
この同期はとても優秀で社内の評価をどんどんあげていた人物だった。
このまま行けば社内でいいポジションにつけるのではないかと思っていた矢先、妊娠・結婚で休職した。
このとき僕は「ああ、もったいないことをしたな」と思っていた。
この先のキャリア、得られたであろう給与、社会的地位それらを
一生添い遂げるかわからない一人の男のために投げ捨ててしまうのかと。
しばらくの間、こう思っていたが最近考えが変わってきた。
大企業だから安定していると思っていた、
この先のキャリアも給与も社会的地位も何も保証されていないことに気づいたからだ。
そう考えると、目の前に自分を愛してくれる人がいて、おなかの中に自分の遺伝子を受け継いだ命が宿っている。
それも目の前の大好きな相手との命。
それに産後、子どもを預けられる施設を利用すれば就業も困難ではない。(変わらず大変だが。)
むしろ今後のキャリアでは子育ての経験が役立つかもしれない。
そう考えれば終身雇用を保証されていない会社の評価をあげるために自分の時間を使うより、
自分のことを生涯愛すると(現時点では)保証してくれる好きな人「のため」ではなく「と一緒に」時間を使った方が有意義ではないだろうか。
「他人の人生を否定する権利は誰にもない。」
25歳で童貞・処女だろうが、結婚していようが、4人目の子どもを妊娠していようがみんな平等に他人の人生を否定する権利はない。
その人の人生はその人のものであり、過去同じようなパターンがあったとしても、それは同じようなものであり、他人の人生の写し書きではない。
「そういう人を知っている」「そういう生き方の人か」と先入観で他人の人生を否定することは本人ですら許されていないのだ。
不確実な今のなかで最適な選択を行う。
「若さがもったいない。」なんてことは絶対にない。
その経験がこれからすべての行動や選択に生かされるだけ。それが早いか遅いかだけのことだ。