公園掃除のボランティアしてきたんだけど、参加者の子どもが楽しそうに花つんでたり、父親くらいの年代の人と汗かきながら作業してた。
「あー人間やってるな」と感じると同時に「自分はここにいちゃいけない」という感情が湧き上がってきました。
コロナ禍で忘れていた感情でした。やあ、久しぶりネガティブくん。
普通に死にたいんだが
— Cura (@goriratta) 2020年7月16日
さっさと死にたいな
— Cura (@goriratta) 2020年8月31日
ツイートさかのぼって見てみるけど、ずっと死にたいんですよ。
何もわるいところも苦しいこともないんですけど、ずっと心の根底には死にたいという感情が渦巻いている。
この死にたい。っていう感情は、人間をやめたいという感情であって、命を絶ちたいという感情ではないんですよ。
同僚の子どもに対して、本当はどうでもいいのに「やっぱり子どもはかわいいですね。いやー癒やされますw」
みたいなことを言う自分もコミュニティもすべて嫌いで、その場からいなくなりたくなる感情をひとくくりにすると
死にたい。になるんです。
美輪明宏さんが言っていたような気がするんですが、「言葉を知れば自分は何に怒っているか表現できる。知らなければどなったり、暴力でしか訴えられない。」
この死にたい。という言葉は大変便利なんです。
例えば「ゴミ出し忘れた。また来週じゃん…最悪…死にたい。」
この場合の死にたいは、「ゴミ出しという生きている間ずっと続けなければいけない作業から死ぬことで解放されたい。」という考えが多分一番最初に出てくると思います。
ただ死にたいにはそれだけではなくて、「ゴミと一緒に1週間暮らすのは不快。」「そもそも自分が存在しなければ、ゴミは生まれない。」「早起きできない自分が嫌い。」「多くの人にできて当たり前のことを自分はできないという現実がつらい。」「ゴミ出しすらまともにできない自分が嫌い。」
こんなにも意味が込められているんです。
だから死にたくなるんです。
自分が嫌い、そのつらさはかなりつらいものです。
親やパートナー、子ども以上に人生で一番一緒に暮らす時間が長い人間。それが自分。
そんな自分が嫌いで、生きていられる訳がありません。
嫌いなやつもご飯を食べます。それもいっちょ前に栄養を欲します。
バランスが悪い食事だと体調を崩します。
嫌いな人間を苦しめようとやっていることが自分に返ってくる。
嫌いなあいては自分だから
嫌いな相手のために仕事をして、ご飯をつくって、ちゃんと寝る。
こんなことをあと何年続けるんだろう。
あーあ「死にたいなあ。」
僕はこれからもずっと死にたいとつぶやいてしまうかもしれません。
ただそれは、一般的な意味合いではなく「不快な環境からの脱出や自身の成長をひそかに望む自分に気づくきっかけの言葉。」として考えていきたいです。
言葉の背景を考える。言葉のまま受け止めない。